【考察】赤ちゃんのベンジャミンはデイジーを覚えていた?映画のラストシーンを深掘り
映画「ベンジャミンバトン」は2008年公開のアメリカの映画です。
人の生や死、若さを失い老うことへの苦悩や葛藤を描いた本作品は、様々な見方や考え方ができる映画の一つと言えるでしょう。
鑑賞したあと本作品の中で気になった部分はラストシーン、
ベンジャミンがいよいよ子供の姿にまで若返っていったときの場面です。
ベンジャミンは青年になった後もさらに若返っていき、過去の出来事や出会ってきた人々の事も忘れていきました。
そして喋ることも歩くことも忘れていき、赤ん坊の姿になったベンジャミンはデイジーに包まれながら亡くなっていきます。
劇中では最後、「ベンジャミンはデイジーのことを思い出した」というセリフと共にラストシーンを迎えておりましたが、本当にベンジャミンは思い出していたのでしょうか。
そしてなぜベンジャミンは若返りながらデイジーのことを忘れてしまったのか。
今回はこの辺りについて考察していこうと思います。
本作のラストシーンを観て、よく分からなかった方はぜひ読んでいってみてください。
【考察】ベンジャミンは本当にデイジーのことを思い出せたのか
ラストシーンでベンジャミンがデイジーのことを思い出していたのかどうかということについて、その答えを知っているのはベンジャミン本人だけです。
確かにデイジーには思い出してくれた様に見えたのかもしれませんが、実際は思い出していなかった可能性も勿論あります。
ただ、人は死ぬ直前に走馬灯として人生の重要な場面や人を思い出すと言われます。
それらを考慮すると、「死ぬ直前にデイジーを思い出していた可能性は高い」というのが正式な答えになるかと思われます。
老人施設にいた認知症のおばあちゃんが、認知症を患いながらもベンジャミンのピアノ演奏を聴いていたシーンは、もしかしたらラストシーン(認知症になりすべてを忘れても大切なものは覚えているという事)へのさりげない伏線だったのかもしれません。
少年になったベンジャミンがデイジーを忘れてしまった理由
若返っていった少年のベンジャミンがデイジーのことを忘れてしまった場面はなんとなく違和感を感じましたね。
これには、「脳は通常通り歳をとっていた」という可能性が考えられます。
それを踏まえて本作のストーリー冒頭を思い返してみると、老体姿で生まれたベンジャミンの幼少期の考え方や発言はごく普通の子供と同じでしたよね。
そのため、「外見上の体は若返っていったが、精神年齢や脳は通常通り歳をとっていっていた」という説が濃厚です。
そのためベンジャミンは少年からさらに幼くなるにつれて、次第にデイジーのことを忘れていってしまったと考えられるでしょう。
もしかしたら次第に忘れていってしまうことも本人は覚悟していて、ベンジャミン自身もその恐怖と戦っていた可能性もあります。そのため青年になったベンジャミンはデイジーの傍から姿を消したのかもしれません。
ラストシーンは人生のあっけなさや時間の経つことの早さを表していた?
本作を見て気になったのは、
子供の姿になり、あらゆることを忘れていくベンジャミンが写されたラストシーンの撮り方。
ラストシーンはどことなくあっけなく、よく言えばテンポよく若返り続けるベンジャミンのことが映し出されていました。
もしかすると時の経過の早さや人生のあっけなさを、このシーンでは表していたのかもしれませんね。
ピエタ像との類似性
みなさんは「ピエタ像」をご存知でしょうか?
ピエタ像は、十字架から降ろされたイエスキリストと、その亡骸を優しく抱く聖母マリアをモチーフとした銅像です。
ベンジャミンも、見方によっては一種の十字架(老人姿で生まれるという呪いの様なもの)に縛り付けられていたとも捉えられます。
ラストシーン、赤ん坊姿になったベンジャミンがデイジーに包まれながら亡くなるシーンは、十字架から降ろされて聖母マリアの腕の中で亡くなったキリストと重なる部分もあります。
本作は見返すと、冒頭の牧師のシーンでキリスト色が示されていたりとキリスト思想の組み込まれた映画であることは確かです。
そのため、ラストシーンはピエタ像にインスピレーションを受けて撮られた可能性もゼロでは無いでしょう。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
ラストシーンは見直しているだけでも色々な見方が出来ます。
ここまでお読みいただき、別の視点や新しい考察などのご意見等ございましたら是非コメント欄までいただけますと嬉しいです。
お読みいただきありがとうございました。
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