この記事は、ティムバートン監督の代表作「ビッグフィッシュ」をもう既にご覧になったみなさんへ向けて書いております。
映画「ビッグフィッシュ」は2003年公開のアメリカの作品です。監督はティムバートン氏でした。
ティムバートン監督といえば、独特な世界観からなる作品作りをすることで有名ではありますが、この映画もまた独特な世界観から一回観ただけでは中々理解しきれなかった方も多いのでは無いでしょうか。
今回は、既に観終わった方向けに、見て感じた感想や題名の由来や個人的に気になった部分の考察まで触れていきます。
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原作はダニエル・ウォレス氏作の小説
ちなみに、本作の原作となったのはダニエル・ウォレス氏の小説です。
映画「ビッグフィッシュ」を観た感想
本作を初めて観たのは大学生くらいの頃でしたが、初見の時からラストシーンでめちゃくちゃ号泣してしまった、個人的に思い入れの深い大切な作品の一つが「ビッグフィッシュ」です。
自身がティムバートン監督の映画を観たのは初めてでしたが、独特な世界観に対する拒絶感や抵抗は早々に無くなり、すぐにストーリーに入り込めました。
そして本作でストーリーの主軸となっていたのは父エドワードの展開するおとぎ話(=嘘の話)でした。
「嘘」というと聞こえは悪いですが、その「嘘」が人を幸せに、楽しい気持ちにする「嘘」なのであれば時には必要なのかもしれないと、そう考えさせられる作品でしたね。

それに父エドワードの語るおとぎ話は全て、完全な嘘ではなく事実に基づいて作られた脚色の強めなおとぎ話だったことも劇中終盤では描かれていました。
息子のウィルは、そんな父親の本当の姿を終始知りたがっていました。父の姿は「氷山の一角」しか見えていない、おとぎ話の嘘で塗り固められた父の過去の話にはうんざりだと、そう伝えていました。

息子ウィルが記者系の仕事に就いていたのも、「嘘ではなく真実を伝える仕事」に就きたかったからであり、父親との対比がしっかりと表されていましたね。
しかし、ラストの父が亡くなってしまう直前、「嘘(おとぎ話)」で語られてきた父親自身の全てを息子ウィルは受け入れ、「それ(おとぎ話)こそが父の全てだ」と確信し、息子として初めておとぎ話を創作したシーンは非常に感動的であり、おとぎ話で始まりおとぎ話で終わる親子のストーリーは他の作品には無い感動を誘い出しました。
またラストシーン、病院での父と息子のシーンは
「脚色のない真実のストーリー」だと、病室で息子が父の最後を看取っただけの場面でしたが、
息子ウィルの語った「父に向けてのおとぎ話」は、父エドワードが望んでいた最期であり、二人の最後として永遠に語り継がれます。
ラストシーンを観れば、父エドワードの人生(=おとぎ話で人を楽しませてきた人生)は決して間違えではなかったのかもしれないと、そう思える映画でした。
映画「ビッグフィッシュ」の考察ポイント

ここからは実際に本作を鑑賞して疑問に思った部分や気になった部分の考察をしていきます。
「ビッグフィッシュ」という言葉が意味する2つの意味

この映画は、まずタイトルの由来が最も気になるところですよね。
ビッグフィッシュと聞いて、まず思うのは劇中に出てくる伝説の大魚をただただ意味した言葉だと思いがちですが、ひとつに「ビッグフィッシュ」は「話を盛って人に話すこと」を指す言葉です。
映画の中のエドワードブルームのように過激な作り話を話す方は中々少ないかもしれませんが、大なり小なり少し脚色を加えたり持った話を友人に話したことのある方は結構いるのではないでしょうか?
そう考えると、この映画の中身も決して他人事にも思えなくなってきますよね。
また「ビッグフィッシュ」と言う言葉は直訳で「大物」や「重要人物」といった意味合いもあることから、作中でも出てくる大物となった主人公のエドワード自身を指した言葉でもあると言えるでしょう。

様々な人と出会い、様々な人の人生をいい方向に導いていった主人公のエドワードはまさに「大物」でしたね。
魔女の正体
映画の冒頭でもラストシーンでも出てくる登場人物に魔女がいますが、私は一回映画を観ただけではこの魔女の正体について理解することはできませんでした。
結論からになりますが、魔女の正体は幻の町「スペクター」で出会った少女ジェニファーです。
ですがここで気になるのは、なんで年老いて魔女となったジェニファーがエドワード少年時代から存在していたのか、という問題です。
この問題に関してはあくまで推測ですが、おとぎ話を作りすぎた結果、時系列が前後したりごちゃごちゃになってしまい起きた現象かな?と思います。
それかあくまでおとぎ話でありホラ話しなのでお父さんもそこは強めの脚色を加えてのかもしれませんね。
父親エドワードは彼自身のおとぎ話の中で生き続ける
ラストシーン、父親エドワードは実質亡くなってしまうのですが、息子ウィルにとって父親は居なくなってしまったわけではないという解釈にも取れます。
おとぎ話を話しすぎた結果、父親自身が話そのものとなり、おとぎ話が語り継がれる限りまさに永遠に生き続ける形になったのです。
父親の死もおとぎ話の力がなければ、ただ病気になり病院で死んでしまっただけの事実が残るだけでしたが、息子ウィルの創作おとぎ話のおかげもあり父エドワードは「彼なりに満足できる死」を迎えられたような気が、私には感じられました。
まとめ
映画冒頭はちょっとしたコメディ映画かとも思われるような展開の本作ですが、ラストシーンを迎えたところで涙してしまったという方も多いのではないでしょうか。
見返せば見返すほど深掘りができるのも本作の魅力です。
「こんな解釈もあるんじゃないか」
「この考察は間違ってるのではないか」
などなどご意見ございましたら、ぜひコメント欄までお寄せくださいませ。
お読みいただきありがとうございました
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